無邪気とは、大人にとっての贅沢なのかもしれない。

「無邪気な人って、なんかいいよね」

そう言われたことがある。あるいは、無邪気な人に出会って、少し羨ましく感じたことがある。

子どもみたいに笑って、夢中になって、思ったことを素直に話す。計算も見栄もなく、ただそこに「そのままの自分」がいる。

でも、私たちは大人になるにつれて、「無邪気であること」がだんだん難しくなっていく。

それはなぜなんだろう?

■無邪気って、どういうこと?

無邪気。

漢字を分解すれば、「邪(よこしま)な気持ちが無い」と書く。

つまり、計算高さや下心、駆け引きや自己保身がない状態。

人にどう思われるかを気にせず、純粋に「楽しい」とか「好き」とか「面白い」と思えることを全力で表現できる心。

たとえば、子どもがシャボン玉を見つけて「うわー!」って走り出すような感覚。

たとえば、好きなことを話すときに目がキラキラする友達。

たとえば、くだらないことでお腹を抱えて笑える瞬間。

そういう時、人は「無邪気」だ。

■無邪気さを失っていく理由

私たちは、大人になるにつれて「無邪気」を少しずつ手放していく。

・空気を読むことを覚える

・人に迷惑をかけないようにする

・恥をかかないようにふるまう

・“大人なんだから”という言葉に縛られる

生きていくためには、ある程度の「理性」や「思慮深さ」は必要だ。

だけど、そればかりが優先されると、心が自由を失っていく。

「こんなこと言ったら引かれるかな」

「今さらこんな夢語っても笑われるかな」

「どうせうまくいかないし…」

そんな風に、自分の感情や欲望に“ストップ”をかけることが癖になってしまう。

気づいたら、無邪気に笑ったり、素直に泣いたりすることすら「ちょっと恥ずかしい」と思うようになってしまう。

■でも、本当はみんな無邪気になりたい

それでも。

心のどこかでは、誰もが「無邪気な自分」を求めていると思う。

夢中になれることを探していたり

誰かの前では素直でいたいと思っていたり

「もっと自由に生きたい」と感じていたり

たとえば、旅に出たとき。

たとえば、推しのライブで叫ぶとき。

たとえば、親友と夜中まで語り合うとき。

そんなとき、自分でも驚くほど無邪気になれる。

心の鎧を外して、「ただの自分」でいられる。

それって、ものすごく尊い時間なんだ。

■無邪気=子どもっぽい、ではない

よく、「無邪気=子どもっぽい」と思われるけど、それはちょっと違うと思う。

本当の意味での“無邪気さ”って、大人だからこそ必要なんじゃないかと思う。

だって、無邪気になれる人って、

・感情に素直

・自分の「好き」を大切にしてる

・人の目より、自分の気持ちを信じてる

・他人と比べない

そういう人たちだ。

むしろ大人だからこそ、「あえて無邪気でいる」という選択ができる。

それは覚悟でもあり、勇気でもある。

■無邪気であることは、癒しになる

無邪気な人と一緒にいると、なぜか安心する。

こっちまで肩の力が抜けて、自然体になれる。

「こうしなきゃ」っていうプレッシャーが溶けていく感じ。

だから、私は“無邪気さ”って人を癒す力があると思う。

笑い方が豪快だったり、目が合うたびににこって笑ってくれたり。

そんな人といると、自分まで笑顔になれる。

無邪気は、周りをも巻き込む“明るさ”なんだと思う。

■自分の中の“無邪気”と、もう一度手をつなごう

忙しい毎日。

疲れる人間関係。

結果や評価に追われる仕事。

そんな中で、自分の“無邪気な部分”は置き去りにされやすい。

でも、それって本当に大事な部分だと思う。

だから時々は、無邪気な自分を解放してあげよう。

・泣きたいときは思いっきり泣く

・好きなことに夢中になる

・誰にどう思われても、心が動くままに行動してみる

そうやって、ちょっとずつ「無邪気力」を取り戻していく。

それが、自分をもっと好きになるための第一歩かもしれない。

最後に

無邪気さって、子どもだけの特権じゃない。

大人にこそ必要な「心の栄養」なんだと思う。

自分を守る鎧を脱いで、もう一度“素の自分”に会いに行く。

笑って、泣いて、夢中になって、心が自由になる。

そんな時間を、もっともっと大切にしていきたい。

「無邪気に生きる」って、きっと、人生をもっと面白くしてくれるから。